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2009年3月27日 (金)

無一物

  この宇宙の中には、何も無いのだということがよく分かった。所有していると思っているものは、これ幻影なのである。現実というものもない。

  これからは所有している物、これは物質に限らず、情報についても、これを捨て去らねばならぬということが、これまたよく分かった。

  全てがサイバースペースでのことのように感じられて、又それが真実のことのようであると思っている。

  祈りというものは宗教とは違うのである。宗教の祈りは極めて限定された、瑣末なものだ。ビッグバン以来の祈りのことを、忘れてはならぬ。

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2009年3月26日 (木)

所縁の放下の時

  古いファイルを眺めていたら、次のようなものがあった。多分60歳ごろに、蔵書の大破棄を行った時の感想文のようなものであろう。

  糸川英夫のブルーバックス本(複数)を破いて捨てた。40歳頃にこんなものを買って傍線などを引き、感心しつつ読んでいたのかと、今更ながら心の変化に驚いている。こんなものを読んでいたなどと他人に知られるのはまことに恥ずかしいことである。

  それにしても時というものは無情である。たとえば、石坂洋次郎の小説は戦後大いに読まれたものであるが、今は殆ど読まれることが無いようである。糸川氏のハウツーものなどは更に鮮度がこれから急速に落ちていくのではあるまいか。そこで考えるのであるが、かかる類のハウツーものを、残残置しておくのは実に恥ずかしいので、探し出して破棄するにしくはあるまい・・・・。

  まだグダグダと、続くのであるが、恥ずかしいから止める。70をとうに過ぎた今となって考えてみると、まことに忸怩・滂沱たるものがある。人は何も持たずに泣きながら生まれ、無一物にて大いなるものの元に帰るのだ。

  そのように観ずれば、捨てることに躊躇してはならぬ。とはいえ、どうしてもセンチメンタルジャーニー的な感傷におぼれて、なかなか思い切れぬものがある。そこの未練を断ち切らねばならぬと、悩み果てる想いなのだ。

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2009年3月25日 (水)

メメント・モリ

  今月中旬に一人しかない弟が、突然死した。起きてコーヒーをいれてきたら倒れてそのまま逝ってしまったという。救急車が来たときには既に心停止の状態だった。

  俺は昨年末から持病の心臓の具合が極めて悪く、行けないと思ったが、倒れるのを覚悟して新幹線で行った来た。映画「おくりびと」のようなセレモニーの間、俺の身体は揺れ動いていた。

  メメント・モリの言葉が頭の中で鳴っている。今は寝ている。空洞が出来たようだ。俺の気持ちを代弁するのは、次の箴言である。

  太陽と死は直視することができない -----ラ・ロシュフーコー

  なぜ、わたしは葬式が嫌いかといえば、葬式は死者と全く関係がないからである。あれは生きている人間のためのものだ。もうひとつ言えば、葬式とは死者にかこつけて生者が虚栄心を満足させる儀式だからである。 ------井上ひさし『続 家庭口論』

  今日は期せずして俺の親父の命日である。線香をあげてからこのブログをアップした。暫くの中断の後に! 合掌。

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2009年3月12日 (木)

百寺巡礼

 五木寛之氏の『百寺巡礼』シリーズについては、ハードカバーでは高価かつ嵩張るので、文庫本化したら求めようと思っていたところ、このほど第6巻までが講談社から出たので、アマゾンで注文し求めた。そのうちに7巻~10巻までも文庫化される予定である。そうしたら残余のものも注文するつもりだ。

Photo

  本の中には写真が殆ど無いのではあるが、今は便利である。インターネットで訪れることが出来るのだ。実際に訪れるのとは、その質感(クオリア)が全く違うとは思うが、それでもその雰囲気の一端は味うことが出来るのである。そのようなわけで、まず最初の室生寺から訪れることにした。

Photo_2

室生寺入口

Photo_3

室生寺五重塔

このように、外出もままならなくても、工夫次第で世界のあらゆるところへ、旅行できるかと思うと、その有難さに、大袈裟に言えば涙がチョチョ切れる想いである。

百寺巡礼の写真集のURLを↓に掲げておく。

http://www5a.biglobe.ne.jp/~kazu_san/hyaku.htm

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2009年3月 4日 (水)

今在ることの有り難さ

  何年か振りに、心臓の発作が出た。不整脈とか、動悸等については、もう病歴も長いものだから、それなりに対処しているから驚くほどのことではないが、発作の場合は、何と形容してよいか分からぬ恐ろしさがある。

  昔々、虫垂炎となって手術したことがあった。その頃は私は酒をよく飲んでいたものだから、麻酔が部分麻酔では駄目で、全身麻酔ということになった。その麻酔が覚めるときの感じと極めてよく似ているのである。

  おぼれて、暗い海の底に沈んでいて、上の方の明るいところを目指して、浮き上がろうともがくが、空しく水をかくのみで絶望的な苦しさ、そのように形容できるような苦痛を味わった。発作というのも、睡眠中に起こると、それと同じような、苦しみを味わうのである。

  やっとの思いで浮上した後、麻酔の場合であれば、それで苦しみは終わるが、発作の場合は、その後でも苦しさは残っているのだ。ではあるが、漆黒の中でもがいている時に味わう、恐怖というものは無いのが救いと言えば救いではある。

  ではあるが、全ては過ぎ去ってしまえば、自分が生きている、いや生かされているということを実感し、大袈裟に言えばその有り難さに心が打ち震える思いである。かにかくに、人生は過ぎ行くのだ。

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2009年3月 3日 (火)

原因と結果の法則

  一応、カテゴリーは「心と体』ということにしてあるが、これは別に心と身体のことだけに限られることではない。以前ジェームズ・アレンの『「原因」と「結果」の法則』①~④を読んだことがあるが、これは『成功の技法から、人の生き方までの、全ての原理が書かれている』ロングセラーのいうなればニューソートの元祖とも言うべき書である。

  ジョセフ・マーフィーを始めとする、いわゆる人生哲学ハウツーものは全てこれのパクリではないかとも思えるのである。この著書の邦訳も出ているが、これは原文を読んだ方が良い。アマゾンで買うことも出来るが、インターネットで検索すれば出てくるからそれを読めばすむ。

  私がここで取り上げたのは、人生哲学やら、心と身体に関することばかりではなく、『コギト』(われ思う故にわれ在り)に当てはまるのではないかとも思えるし、又諸々の現象についてもそれが当てはまると思えるからなのだ(『考える』ということによって、その結果として『われが存在する』と解釈する)。

  ここで下世話なところに話を落として、電気製品の故障などがあったとする。すると、その原因を突き止めるということが重要なのであって、故障の現象に一喜一憂するのはアホかいなということなのだ。したがって、その原因究明にかかる費用が、費用の大部分を占めるべきなのであって、例えば故障の原因となっている部品交換の費用などは微々たる物にすべきなのである。

  これは人間の病気にも当てはまるだろう。名医というのは、原因を突き止めるのみでなく、その原因のよって来る根源的なるものの思いをはせて、ずばりと一言で、つまり言の葉で快癒させるのである。しかし言葉で治しても、現行の医療制度では、金にならぬから、真の名医というものは生まれにくい、というよりそれは不可能に近い。だから、神の手などという2番手の名医がもてはやされるということになるのだろうと、素人考えをしている次第である。

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