2009年7月30日 (木)

捨てる技術?

  「捨てる技術」なる本を遥か昔に捨てたことに気づいた。その当時、この本は本屋の店頭に平積みされていて、NHKのクローズアップ現代でも取り上げられていたような記憶がある。

  「超整理術」とか、そのての諸々の情報の管理に関する本が雲霞のごとく出版されていたように思う。そのれの本を俺もご他聞に漏れず色々購入していたのであり、提唱されている技術の数々を実践したものだったが、今にして思えば阿保らしいことをしていたものだとつくずく思うのである。

  要するに阿呆の提唱に踊らされていたに過ぎぬのだ。捨てるなどということは、他人に教えて貰った技術を習得して実施するというようなことではない。要はその人の生きるありようにかかっているのだから、その人その人のやり方で、やるもよしやらぬもよし、大体が話題にするほどのことではないことなのだった。

  以上のように俺なりに断じて、減量大作戦も。俺なりに思うままにやり、あとくされの無いように、つまり後で反省などというつまらぬことはしないで、適当に減らして行けばそのうちにどうにかなるべぇという位の気持ちで、軽い乗りでかつ真剣にやることにした。

Suterugijutu

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2009年7月29日 (水)

夢幻の如くなり

   昨日に引き続き今日も減量作戦の進行ははかばかしくなかった。そこで夕刻思い切って4冊ほどエイヤットばかり捨てた。捨ててしまえばもう思い出すこともあるまい。そこまでの未練をどう断ち切るかが、実に大変なのだ。

  現在に生きるということがある。そうではなくて現在にしか人間は生きられぬのである。前後に存在すると思っている、あるいは誤解している過去と未来というものは、無いのである。それは脳内の幻想に過ぎない。

  書物、あるいはその他諸々の所有物などは、実は所有してはいないのであることに気付かねばなるまい。持ち物という言葉は、誤解を呼ぶ。そんなものは無いのだ。持っているという風に錯覚しているに過ぎぬのである。

  そうなると、本来何も所有していないにもかかわらず、あたかも持っているかのごとく錯覚して、書籍等の減量作戦と称しているのは、まことに笑止千万である。捨ててもそれは捨てたのではなく、元の姿に戻ったということなのだから、全てはことも無く平穏に過ぎ行くのであって大騒ぎをするほどのことではない。

    ネグロポンテの「Being Digitsl」の初版本があるが、これも今日捨ててやった。尾篭な話ではあるが、あたかも長年にわたって続いていた便秘が、解消したかのごとき快感を覚えたのであった。

Beein_digital

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2009年7月27日 (月)

情報の破棄

  今回の書籍等大減量作戦は何回目であろうか? 記録してないので正確のところは分からぬが、 はじめに行ったときは、確か蔵書を3分の一位に減じた筈である。その後何回かの作戦遂行を経て今では相当量のものが無くなりすっきりしてはいるものの、未だ特に「クリプトグラフィー」、「インテリジェンス」、「数学」、「情報工学系」、「諸宗教関連」その他諸々の本が未だ残っている。

  特に私が苦慮しているのが、「クリプトグラフィー」に関する諸々の市販本雑誌等であり、はじめはしかるべきところに寄贈する積りではあったが、それも実に下らぬことに思えて、今では思い切って、捨ててやろうかと思い定めているのだが、未だ最終の決心が出来ないでいる。そこが俺の馬鹿さ加減・優柔不断さなのだ。

  今細々と、一日最低5~10冊の破棄を目標に破砕破棄をしているところである。ではあるが、このペースでは、10冊としても、一ヶ月に300冊、一年に3000冊に過ぎない。俺は気が短いし、又体調もよくないことなどを合わせ考えると、やはりこの作戦は、3ヶ月を限度として終了せねばなるまい。

  そればかりではない。VHSにとり溜めた、あるいは購入したビデオテープが、前回大半を捨てたにもかかわらず、未だ残っている。加うるにカセットテープである。ビデオの方は、その為の装置を購入してあるので、やり方を勉強して可能ならばパソコンに取り込みたいところだ。

  カセットテープの方は、その為の装置を買わねばならぬ。そこまでして残すほどの価値があるものか?はなはだ疑問である。そういう面から考えてみると、残された貴重なる時間に観たり聞いたりする価値が、書籍やら、テープやらにあるものか?これもはなはだ疑問である。思い切って、条件などは一切つけずに、全てをエイヤット捨ててしまった方が、精神衛生上極めていいのではあるまいか?その辺のところで、俺の心は揺れ動いているのである。ではあるが、無にて生を受け無にてこの世を去るのだという真理から考えれば、やはり無条件の破棄が一番のようである。

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2008年12月28日 (日)

メール考

  本題には「黄昏」なる語が含まれている。まことにそのように、最近の私のメールボックスは、黄昏て来た。年末ということもあろうが、それは季節変動に由来するものではなく、もっと深いところにその原因がある。

  メール交換する同級生等の高齢化がその一つであると共に、携帯のメールに比して、ビジネスでないパソコンにおけるメール交換は、もうオブソリートになったのだと思うのだ。

  ではあるが、それでは詰らないので、只のメールアドレスにメールマガジンを各分野から配信してもらうようにしている。これはスパムと違って、自らの興味の対象から来るので、無視し得ないものが時々入っている。

  てなわけで、今年まではともかく、そういう現実を踏まえると、来年からは、私的通信はむしろ来ないということを吉兆と考えて、勉学に励む?のがいいと思うのだ。吉兆といえば、あの『船場吉兆』はどうなったのだろうか?もう忘却の彼方である。

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2008年9月13日 (土)

ヘタリ込む人類

  それにしても最近の日本はおかしいと感じるのは老生ばかりではないだろう。政治、相撲、食料、無差別殺人、異常気象、経済危機、どれをとってみてもおかしいものばかりである。

  加えるに、隣国の異常事態らしき兆候がある。これに対して政治家が物申さぬのは何故か。多分情報が乏しいというよりもともと持って無いのと、関心が無いためなのであろう。これも異常である。

  余り悲観的なことは言いたくないのであるが、そしてオプティミズムで行きたいのは山々なのであるけれども、どうもこの地球という天体上の、人類という生き物は、先が無いような気がしてならない。

  こんな愚痴を垂れ流しても何にもならぬことは百も承知のすけではあるが、ついつい出てしまうのは俺自身の加齢のためなのであろうか?!それとも案外正鵠を射ているのかも知れぬ。

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2008年6月29日 (日)

月一のペースになってしまった!

 6月には投稿してない。これでは一月に一回しか投稿しないことになる。これではならじと、ない頭を絞ってはみるものの何も出て来ないのだ。仕方がないから、琵琶の樹のことでも書くとするか。

 30数年前に西洋長屋のベランダに、食べ残しの枇杷の種を蒔いておいた。そうしたら芽が出て、何時の間にやら大きくなり、鉢に放置するに忍びなく、家人が下に植え直してやった。なにやら今年は豊作のようで、枝もたわわに実がなった。

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 雀が来て、チイチイと鳴きながら実を啄ばむ。可愛いものである。だがしかし、ムクドリやカラスの場合は違う。このあたりの林に住んでいるのだろう、ムクドリの大群が、連日やって来る。あたかもヒッチコックの『バード』のような風景だ。

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 これが裏の枇杷に襲いかかるのだ。枇杷の樹の先端は30有余年を経て裏窓(3階である)に届くほどになっている。だからそっと覘いてその襲撃の有様を撮影出来るのだ。

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 哀れ枇杷の実はこのような有様である。昨日近所の子供たちが樹に登って琵琶の実を採ろうとしていた。ムクドリに食い荒らされるよりはその方が増しだと思ったのではあるが、自然に帰すという意味では、鳥たちにくれてやった方が良いのではあるまいかなどと考えたのであった。

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