2008年12月30日 (火)

飯嶋和一氏について

  「お散歩デジカメ」なるメルマガがある。私はこの作者の軽妙なる文章が好きで、このメルマガをずっと購読して来た。写真家である作者は、もちろん写真に関するプロ中のプロであろうと思うが、私にはその写真もさることながら、写真に付属するエッセイ風の文章が好きで、愛読している。

  余談になるが、氏の写真に関する書物まで購入したのだが、もともと写真に関しては素人の私である、高邁なる内容については理解しているとは言えないものがある。氏は無類の書物好きで、色々な本を何冊か常に携行して、日々読破しているらしい。

  その氏が推奨する作家が、「飯嶋和一」氏である。そこで老生も、負けじと「飯嶋和一」氏の本を、アマゾンに例によって予約しかけた。が、よくよく反省してみると、最近のアマゾンへ注文した金額は、貧乏人の老生にとっては、かなりの額になっているので愕然とした(親父ギャグ)。

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  そこで何冊かの本の発注を取り止めて、それらのレビューをいくつか読んでみた。評価の高いレビューはわざと外し、あまり高くない方のものを参考にして、しばらく様子を見ることにした。時代物であるから、浅田次郎氏の著作のようには、中身が晦渋で読めぬのではないかという危惧もある。

  まことに残念である。このご時勢である。貧乏暮らしの老生には、この年の瀬を越せるかという切実なる問題もある。涙を呑んでしばらくの間、注文をあきらめることにした。参考のために、「お散歩デジカメ」のブログ版のURLを↓に掲げておく。

http://osampodigi.exblog.jp/

 

 

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2007年12月 5日 (水)

読書の旬の時期

 キケロ著、吉田正通訳の『老境について(岩波文庫)』を再読している。若年時に読んだ印象とはまるで違う。というよりは、ただ読んだという事実だけが残っているに過ぎぬのだ。書物というものは、それを読む時期により、千変万化の印象を、読者に与える。

▼この書などはまさに老境に達したときに読むべきもののように思える。書物には読むべき旬の時期が読者毎にあって、その時期に読まなければならぬもののようだ。しかしその時期なるものは、読者の死の時に、どの時期がそれであったかが分かるものなのだ。

▼その意味で、書物というものは、生き物であり、かつ化け物・妖怪でもあるのだろう。そのようなまことに素晴らしい存在である書物との交際の期間が、限られた期間しかないということ、つまり人間の生存期間が限られていることが、残念でならぬ。

▼今日もアマゾンから注文しておいた書物が2冊届いた。私にとって、これらの書物が旬であるか否かは、読んでみないと分からぬというよりは、私という存在が無に帰した時でないと分からぬ。これは大いなる【無】でなくてなんであろうか!

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2007年9月21日 (金)

アマゾンの誠意ある対応

 前日のブログに書いた事案は、アマゾンの誠意ある対応により本日、無事配送完了し、ここに一件落着した。そのアマゾンからのメールを掲げて、本日のブログとする。

Amazon.co.jpにご連絡いただき、ありがとうございます。

このたびは、商品のお届けにお時間がかかり、お客様にご迷惑をおかけいたしましたことを心からお詫び申し上げます。

また、お忙しいなか、商品のお受け取りについてお知らせいただき、誠にありがとうございました。当サイトといたしましても、商品を無事にお届けすることができ大変うれしく思っております。

Amazon.co.jpでは、お客様にとって使いやすく便利なサイトを提供できるよう引き続き努力して参りますので、ご不明な点などがありましたら、ご遠慮なくお問い合わせください。

Amazon.co.jpのまたのご利用をお待ちいたしております

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2007年9月 7日 (金)

『考えるヒント』小林秀雄

Kangaeruhinto  小林秀雄の『考えるヒント』を取り出してきた。初版が1974年6月25日である。私の持っているのは、第2版で、1974年7月20日である。この『1』から1980年9月25日第1版の『4』までを再読することにした。

▼解説は、『3』が高橋英夫であるのを除いて、全て江藤淳である。今『1』の『プラトンの「国家」』を読んでいるところだが、なかなか歳のせいか読書速度が極端に遅い。それに、色々横線などがひいてあったりするのだが、なぜひいたのか、ひいた当時の心境はまるで記憶に無い。

▼購入時から既に33年を経ているのであるから、無理も無いと思うが、随分と印象が違う。若造でもなかったが、当時の脳の状態と、今の状態とでは、まるで別物であるためであろうか、心に突き刺さるような、ある種の感激があり過ぎて、速読などとても出来ないのである。

▼改めて、小林秀雄の凄さを再認識したといっては失礼に当たる。とても『全集』を読むだけの時間は残されていないだろうと思うと、返す返すも残念だ。せめて『本居宣長』だけは再読したいと思うのだが。

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2007年7月12日 (木)

文藝春秋の読み方

Bungeishunju0708   私は文藝春秋誌の愛読者であり、これまでずっと購読している。配達されると、まずざっと読むというより眺め渡して、家人に渡す。私は精読はしないのである。

  しかして、一ヶ月遅れの文藝春秋を、おもむろに取り出し、現時点で興味のあるところから、時間をかけて読むのである。この一ヶ月遅れというところが味噌なのだ。

  新聞や週刊誌と違い、一ヶ月の遅れということは、おおよそ2ヶ月の遅れに等しいと言っていい。その頃となれば、アドホックな下らない情報はもう淘汰されていて、自分にとって価値のあるというか、読みたいもののみが目に入ってくるのである。

  本当は3ヶ月あるいは、半年・一年の遅れの方がいいのかも知れぬが、それでは余りにも日にちが経ち過ぎると思うので、直ぐに最新(と言ってもすでに一ヶ月遅れではあるが・・・)の記事を読みたいのをぐっと我慢して、かたくなに号にして一ヶ月の遅れを死守しているのである。

  私の情報の頭レベル・入力レベルでの整理は、こんなところから始めるのである。これが意外に私に合っていて、これからも、よほどのことが無い限り、ずっとこの方式で行くことだろう。時間による情報浄化の作用も馬鹿にならぬものなのだ。

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2007年6月22日 (金)

かけがえのない日々の再読

Photo_8   ふと本棚を見て、取り出したのが『かけがえのない日々 柳田邦男』であった。97年に読んだことが記してある。柳田氏の珠玉のエッセイである。10年前に読んだのに、もう大方の内容はうろ覚えである。加齢とはそういうことであろう。

  だからこそ、又新たなる感動を味わうことが出来るという、余禄があるのだ。↓に『ちとせ館』の書評があるので、それを見てもらいたい。

http://blog.livedoor.jp/chitose2/archives/707238.html

  同年代の作家たちの、訃報を聞くことが多くなった。自分にとっては、全ての時間がかけがえのない日々である。そのような日々を、私は記憶してないことに大きな後悔を覚えるのだ。

  自分の神経細胞の発火パターンの記録が、脳内に残っていて、それが潜在意識というものであろう。このような書物を読むことによって、そんな記憶が蘇って来ることがある。それはまことに自分だけの感動である。

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2007年1月25日 (木)

アマゾンから本来る

Gennsisiroku   先日発注した佐藤一斎の『言志四録』がアマゾンから届いた。先日駅の前の本屋へ行って色々ブラウジングしてみたが、欲しいものは何一つ無かった。駿河台下の三省堂や、日本橋の丸善へ行かなくなって久しい。

  その代わりネットショッピングで本を買うことが多くなった。今はまだ一部ではあるものの、中身を立ち読み出来るから有難い。病気で出かけられぬ人や、僻地で大きな本屋が無いところに住んで居る人にとっては便利というか福音である。

  しかしこれも癖になると、つい何冊も買ってしまうというところがあるので、経済的には交通費がかからないからいいようなものの、意外に出費がかさむことになる。

  今日届いた『言志四録』は現代語訳でありかつ抄録であるから、これで大体のところを掴んでから、4冊を注文し、精読したいものと考えているが、私のこれまでの性癖からすると、買ってしまうと既に読みかつ味わってしまったような錯覚に陥るものだから、どうなることやら心配ではある。

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2006年12月27日 (水)

読書スタイル

   今日もまたアマゾン・ドットコムに本を注文してしまった。本屋で見てもなかなか探せないのでどうしてもアマゾンに頼ることになる。昔の神保町での探索が、アマゾンのブラウズに変わったというところである。

  著作権の切れた本のうち青空文庫に登録されているものは、ダウンロードして読んでいる。昨日のブログに書いた『一握の砂』にしても、夕刊もさることながら、パソコン上で読むのも悪くない。

  私は読書の際、本を読み潰すようなスタイルなので、マーカーペンで線を引いたり、万年筆で書き込みを入れたりすることが多い。したがって、手持ちの不要なる本を売却することは出来ず、そのまま廃棄ということになる。

  その点、パソコン上の読書の場合は、コピーをしておいて、それに色を変えて書き込むことは実に簡単なので、原本兼読書ノートが容易に出来上がることになる。とは言ってもそれはここに書いたというだけで、余り実行はしていないことを白状しなければなるまい。

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