2009年4月21日 (火)

百寺巡礼

  3月12日のブログで、以下のように書いた。

 五木寛之氏の『百寺巡礼』シリーズについては、ハードカバーでは高価かつ嵩張るので、文庫本化したら求めようと思っていたところ、このほど第6巻までが講談社から出たので、アマゾンで注文し求めた。そのうちに7巻~10巻までも文庫化される予定である。そうしたら残余のものも注文するつもりだ。

  その後、7巻と8巻が文庫本化されたので求めた。勿論アマゾンからである。

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Photo_2  もう2冊文庫本化されれば大団円である。文庫本にする理由は、安価ということも勿論あるが、それよりも、場所をとらないということが、貧乏西洋長屋に住んでいる者の、考慮すべき第一条件なのである。

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2009年3月12日 (木)

百寺巡礼

 五木寛之氏の『百寺巡礼』シリーズについては、ハードカバーでは高価かつ嵩張るので、文庫本化したら求めようと思っていたところ、このほど第6巻までが講談社から出たので、アマゾンで注文し求めた。そのうちに7巻~10巻までも文庫化される予定である。そうしたら残余のものも注文するつもりだ。

Photo

  本の中には写真が殆ど無いのではあるが、今は便利である。インターネットで訪れることが出来るのだ。実際に訪れるのとは、その質感(クオリア)が全く違うとは思うが、それでもその雰囲気の一端は味うことが出来るのである。そのようなわけで、まず最初の室生寺から訪れることにした。

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室生寺入口

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室生寺五重塔

このように、外出もままならなくても、工夫次第で世界のあらゆるところへ、旅行できるかと思うと、その有難さに、大袈裟に言えば涙がチョチョ切れる想いである。

百寺巡礼の写真集のURLを↓に掲げておく。

http://www5a.biglobe.ne.jp/~kazu_san/hyaku.htm

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2007年7月 1日 (日)

富士浅間神社

  バーチュアルな神社の次は、随分と間隔が空いてしまったが、草加市の浅間神社を紹介しよう。以下に観光案内のようなものからの引用文を挙げる。

【引用始め】
  冨士浅間神社は、富士山の神霊である木花咲耶姫命(このはなさくやひめのみこと)を祀っています。
  神社がいつ創建されたか明らかではありませんが、古くは現在の瀬崎小学校付近の善貞庵(閻魔堂)にあったものを、明暦年間(1655~1658)に現在地へ移したといわれています。

Sengenjinja
  現本殿は天保13年(1842)に再建されたもので、間口2.32メートル、奥行3.60メートルの流れ造りの一間社で、前面に軒唐破風(のきからはふう)、千鳥破風を配し、随所に彫刻を配し善美を尽くした建物です。これは当時この地方に繁栄した布晒・染色・形付業などの業者と地元の人々が協力し、瀬崎の冨士講の人たちが面目にかけて造営したものと思われます。
  現在ではこのような豊富に彫刻を配した建物は少なく、特にこの地域での宮彫彫刻を研究する上からも重要なものです。
【引用終わり】

  今日はお祭りなので、谷塚駅の前にあるヤマダへLANケーブルを買いに行ったついでに、参拝して来たというより見て来た。その模様を写真にて添付する。夕方に行ったのでお神輿を見ることが出来なかったのは残念だったが、病院以外に行くのは久し振りだったので、気分転換になった。

Sengen  Sengen_2_1            Sengen_1                                  境内一杯に屋台が出ていて、やはりお祭りはいいものだ。今年は是非浅草のサンバ祭りを見に行こうと思ってはいるのだが、こればかりはその時の身体の状態頼みだからどうなるか分からない。願わくは行けるように、モナー神社に願でもかけようかと思っている。

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2007年6月24日 (日)

開運祈願 モナー神社

Monajinnja_1   インターネット上にあるバーチュアルな神社に参拝して来た。なかなか神社仏閣への参拝が思うにまかせぬものだから、せめてバーチュアル・リアリティでの参拝でお茶を濁そうという魂胆である。

  『開運祈願 モナー神社』なる有難い神社にお参りをした。そのURLを次に掲げておこう。掲げてある順路に従い全てを回ることにしなければならない。そうでないと霊験があらたかにならぬのだ。

http://www.dawgsdk.org/monashrine/

  最初に鳥居をくぐり、参拝等々をして、最後に祈願を描いた絵馬を奉納して終わりなのだが、カキコが多いから直ぐ自分の絵馬の順番が後ろに飛んでいく。太字で書いたり、たくさん書き込もうとすると、墨が無くなってしまうところが又いいのだ。

  この他、『気象神社』や、『ゴルフ神社』、『ホールインワン神社』など探せばいろいろあるが、私は、この『モナー神社』が一番気に入っている。興味や、願い事のある方は参拝してみるのも一興である。

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2007年1月23日 (火)

重要感から言志録へ

  『重要感』という単語で検索すると、やはり予想通り物凄い数の結果がブログをはじめとして出て来た。デール・カーネギーの著書に関しては、和洋を問わず何冊も、しかも同じものを色々な訳者のものも含めて、あるいはペーパーバックやハードカバーといわず、集めてある。

  マーカーで線を引いた跡が懐かしくなるような本が、まだ残ってはいる。ハウツー本とはいえ、これだけ世界中で売れているのだから、その亜流のものは数限りない。検索結果もそうであった。逆説的に言えば、そこに書いてあることを実行することが難しいからこそ、これだけ売れるのではあるまいか。

  だがしかし、その説くところはまことに説得力に富むと同時に、或る意味でやさしい宗教本のような趣もある。人間は実例を多数挙げられると信じてしまうという傾向があるから、或る意味ではゴスペル(福音)の如き響きもある。

  時々、思いついたキーワードで検索をかけて、それに引っかかってきたブログなどを、散策していくと、ひょんなことで面白いものに遭遇することがある。今日の『重要感』での検索では、佐藤一斎の『言志録(げんしろく)』に遭遇し、思わずアマゾンに他の本と共に発注してしまったことであった

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2006年12月25日 (月)

山上の垂訓

 Photo_3        

  クリスマスカードを送った友人から、BGMとともに貼り付けた『胡蝶蘭とシクラメン』の写真が送られてきた。彼は私の数少ないブログの読者であり、拙いブログにもかかわらず、コメントを寄せてくれるのである。

  私は作家でないのは勿論ではあるが、たかがブログであっても、好意あるコメントが寄せられると実にやる気が出てくるものである。批評、これはわが国おいては批評家がするものだが、批評というより批判的論調となることが多い。

  人間として最大の罪は、他人に対する『無視・無関心』であると私は考えている。批評されるうちはそれが好意的であれ、批判的であっても、それは無関心(いわゆるシカト)ではないから、それは感謝して受け取るべき有難い事なのである。

  今日はクリスマスである。イエスの山上の垂訓をあらためてかみしめるのもよいだろう。そこには数多の救いの言葉が満ち満ちているのだから。

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2006年12月11日 (月)

内外の垢

  人間長く生きてくると、色々な垢が溜まるものだ。見の回りの例えば書物などについては、これは目に見えるから何回か大整理をして、蔵書数を大幅に減少させた。

  ところが、心の問題となると、これは目に見えぬから何時の間にか物凄い量の垢が溜まりに溜まって来る。しかしそのことは実感されること無く、本でさえそうなのだからいわんや脳内の雑情報は相当なものと類推するだけである。

  だからといって、これを大整理する方策も知らず、またそれが可能なのかどうかも分からない。多分垢にまみれて無に帰することになるのだろうが、そう考えれば、別にそう心配したほどのことではあるまいと思ったりしている。

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2006年12月10日 (日)

  人間は何処より来たり何処へ往くのか。こればかりはいくら考えても分かるわけは無い。無意識やら、自我や、無我などに関する書物を読んでいる。いくら読んでも何も分からぬ。随分感覚も鈍ったものだ。

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2006年11月27日 (月)

悪徳

  この世で一番の悪徳は、ひょっとして『無関心』ということではあるまいか!この無関心ということから諸々の悪徳が派生的に出てくるのではあるまいか!

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2006年11月 7日 (火)

黄昏

このブロブのタイトル『黄昏の万華鏡は輝く』のうちの、【黄昏】に相応しい内容になりそうだ。最近というか今年は、親しい人の訃報が相次ぐ。そのような訃報を聞いて、自分自身の身近な問題と捉えなければならない、そのような年齢になったということである。

だが、それが人間のありようそのものであるということを、しみじみと実感することはなかなかその時にならなければ無いだろう。火宅の人であるということ認識することは常人には出来ないことだ。

宗教はみな生きている人のためのものであろう。だが葬式仏教では、生者のためにあるとは言えない。いやそれで生計を立てている、糊口をしのいでいる、生業としている者がいるのだから、そう言ってもいいのかも知れない。

【黄昏】ばかりが強調されて、【万華鏡は輝く】方はトンと出てこないブログになってしまった。それも止むを得ないことだ。

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2006年2月 7日 (火)

大いなるもの

春の兆しは そこかしこに

見る眼を持てば 溢れてる

木を割り視ても 春は無い

けれども春は そこにある

見えないものは 見えるもの

見えるものは 見えないもの

大いなるもののアガペーが

充満してるのを感じよう

tubomi

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2006年1月 7日 (土)

一日という枠

bible_top_image0601 一年の計は元旦にありと言うが、暮れから昨日まで新型らしいインフルエンザにやられたため、何もそれらしきものは立ててない。とは言え、昔から何か計画しても、みな計画倒れになって、どれ一つとしてまともに遂行されたためしが無いのだから、どうということもあるまいと高をくくっている。

デール・カーネギーによれば、『はっきりとした今日という枠の中に生きよ』ということが、生きる上において重要とのことだ。これはサー・ウィリアム・オスラーがカーライルの書き物から引用した言葉で、『我々の大切な任務は、遠くにあるぼんやりしたものを見ることではない。手近にあるものを実行することである』ということなのだ。

若い時はこれを読んで、なるほどとそれなりに思ったのではあるが、歳を重ねるに従い、その言葉が、益々実感を持って迫ってくるようになった。聖書にあってキリストが説く『この故に明日のことを思いわずらうなかれ。明日は明日のことを思いわずらえ。一日の労苦は一日にて足れリ』とは、そのことの宗教的表現ではないかとも思われる。

私も改めて、遅まきながらも今年からはその『一日の枠の中で精一杯生きる』ことに徹しようと思ったことだった。

註:写真は『日本聖書教会のホームページ』http://www.bible.or.jp/から借用した。

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