2009年11月10日 (火)

喪中葉書についての悩み!?

  喪中葉書については、とても出せそうに無いということを以前書いたが、、連日のように喪中葉書が来るのを見ていると、これではまずいのではないかと思い直し、昨日、「筆ぐるめ」なるソフトを動かして、喪中葉書を作成せんとした。

  しかしながら、体調は未だ回復には程遠く、しばらくすると、心臓の不具合が出てきたので、急遽作業を取り止めた。やはりどうも無理のようである。

  そこで元の決心の通り、やむなく不義理をお許しいただくことにした。予想以上に、先日の救急車騒動の時の病状の後遺症が大きいことを知ったのであった。それも人生なのであろう。

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2009年6月29日 (月)

忘却とは忘れ去ることなり

  「驚くほど速い」なる意味の名称を持つソフトがある。つい最近といっても一昨日のことだが、これをアマゾンから求めて、2台のVista機にインストールしてみた。驚くほど速くなったかどうかは、感覚的には分からなかった。

  問題なのはそのスピードに関することではなく、その両機共に不具合が生じたことである。その不具合について論じている暇は無いからここでは触れぬことにするが、たまりかねて、それをインストール直前に設定しておいた復元ポイントに復元をした。

  その結果今は何等の不具合も無く、快調に動いている。それで思い出したことがある。同じソフトで、XP用のものがあって、それをXP機2台に適用したところ不具合が生じたことだ。その結果は、一台はリカバリをせねばならなくなったし、もう一台は、復元ポイントに復元して、不具合解消したという事実である。

  「安物買いの銭失い」なる箴言があるが、今回ほどそれを痛感したことは無い。ということで、パソコン雑誌の特集や、書物を参考にしつつ、自前でVistaをカスタマイズすることにした。XPでもそうしていたことを思い出した。

  それにしても最近物忘れがひどい。小川洋子氏の小説の数学者のように、服のあちらこちらにメモを貼り付けねばならぬかと危惧している。それはともかく、こまめにメモをとることは絶対に必要なのだ。

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2009年4月22日 (水)

箴言

  ヘラクレイトスは、「万物は流転す」(パンタ・レイ)と述べた。しかしてデカルトは、「我思う、故に我あり」とした。

  そこで老生は、思うところあり、「万物は振動す。故に我あり」とする。直交変換を考えてみれば、そのことがよく分かるであろう。

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2009年4月20日 (月)

人生は過ぎ行く

小林秀雄の名言に次のようなものがある。

普段は何気なく見過ごしてしまうような言だが、

ひとしお心にしみいる言葉だ。

と同時にシャンソンの「人生は過ぎ行く」が脳内で鳴り響く。

僕等の人生は過ぎて行く。

だが、何に対して過ぎて行くと言うのか。

過ぎて行く者に、過ぎて行く物が見えようか。

生は、果たして生を知るであろうか。

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2009年3月27日 (金)

無一物

  この宇宙の中には、何も無いのだということがよく分かった。所有していると思っているものは、これ幻影なのである。現実というものもない。

  これからは所有している物、これは物質に限らず、情報についても、これを捨て去らねばならぬということが、これまたよく分かった。

  全てがサイバースペースでのことのように感じられて、又それが真実のことのようであると思っている。

  祈りというものは宗教とは違うのである。宗教の祈りは極めて限定された、瑣末なものだ。ビッグバン以来の祈りのことを、忘れてはならぬ。

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2009年3月25日 (水)

メメント・モリ

  今月中旬に一人しかない弟が、突然死した。起きてコーヒーをいれてきたら倒れてそのまま逝ってしまったという。救急車が来たときには既に心停止の状態だった。

  俺は昨年末から持病の心臓の具合が極めて悪く、行けないと思ったが、倒れるのを覚悟して新幹線で行った来た。映画「おくりびと」のようなセレモニーの間、俺の身体は揺れ動いていた。

  メメント・モリの言葉が頭の中で鳴っている。今は寝ている。空洞が出来たようだ。俺の気持ちを代弁するのは、次の箴言である。

  太陽と死は直視することができない -----ラ・ロシュフーコー

  なぜ、わたしは葬式が嫌いかといえば、葬式は死者と全く関係がないからである。あれは生きている人間のためのものだ。もうひとつ言えば、葬式とは死者にかこつけて生者が虚栄心を満足させる儀式だからである。 ------井上ひさし『続 家庭口論』

  今日は期せずして俺の親父の命日である。線香をあげてからこのブログをアップした。暫くの中断の後に! 合掌。

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2009年1月21日 (水)

蟹工船

 『蟹工船』を読んだのは大昔のことだ。確か図書館で読んだような記憶があるが、その粗筋さえもよく覚えていなかった。ひょっとしたら昭和29年頃に文庫本を買ったのかもしれない。

  いずれにしてもどこを探しても我が家にはその本は無いので、青空文庫で再読することにした。専用のビューワーで読むと、文庫本のページをめくるように読めるので違和感はない。

  ソ連邦が解体してから、マルクス主義は全く省みられることもなくなっていたが、あれはレーニンからスターリンにいたるあの独裁体制がいけないのであって、哲学、社会学としてのマルクスの価値は、むしろ今の状況では、再評価されてしかるべきものなのかも知れぬと思った。

  資本主義が今まさに解体しようとしている時、今後の体制はどうなるのか、そのようなことは浅学非才の老生には分かるべくもないが、戦時中に、国内で亡命していたに等しい永井荷風先生のように、その世の中の移り変わりを、冷徹に観察できたらと切に思うが、これは不可能だ。

  今若者に前記の『蟹工船』が人気だという。分からぬでもない。今の世界の情勢を見たり、又国内のこのひどい格差社会を何がもたらしたのかを考えてみれば、思い半ばに過ぐるものがある。だが青年に革命を起こす気力などはあるまい。犯罪に走るくらいが関の山であろう。情けないことではある。


Kanikousen

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2009年1月 2日 (金)

正月

  あっという間にもう2009年である。私の感知せざるところで、年月が流れていくようだ。正月といっても格段にこれということがあるわけでもなく、かといって普段と同じかといえばそうでもない。

  今年は年賀状を出す範囲をしぼった。来年はさらにそれを狭めていくつもりだ。それでも無しというわけにも行かぬだろう。自分が実在と思っているものは、実は実在でもなんでもなく、単に幻影に過ぎぬのだと観じれば、紙での交際であろうが、電子での交友であろうが、まるで夢幻なのであろう。

  友人からのメールに、初参賀の写真が添付してあった。私と違って同年といえども元気なものである。まことに羨ましい限りである。友人には申し訳ないが、その写真を借りて、添付してみる。

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  昨年はものすごい変動の年であった。今年も更に諸々の分野において動乱が激しく生起する年となるであろう。写真のような穏やかな平安な年であることが望ましいのはやまやまではあるが、ペリシテ人とユダヤの民の抗争のごとく、今年は長くその災禍が記憶される年となるような気がするが、杞憂であって欲しいと切に願うのみである。

  

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2008年12月 9日 (火)

呆けの言い訳

 『不安の力』なる五木寛之氏の著書をアマゾンに注文した。配送されてみて驚いたことには、これは以前に初版ものを、ハードカバーで既に求めていたのだった。ハードカバーは1,365円であり、集英社文庫ものは500円である。

  書店で購入するときは、実物を見ているから、そのように2度買いをするようなことはない。と言いたいところだが、そんなことはないのであって、よく昔からそれをしていた。

  ネットで買おうが、書店で買おうが、関係なく過ちを犯すということは、購入するメディアに起因するのではなく、別のところにその誤りの原因を探らなければなるまい。

  一つ考えられることは、五木氏の本を随分と買って読んでいるので、その題名は記憶から飛んでしまっているのだろうということである。つまり内容・思想などが私の中にインカーネートされてしまっているということである。

  となると、よほど注意して、それはハードカバーを文庫本化した再販ものかどうかを、出版日を確かめてから購入しなければならないことになる。しかしそんな手間をかけるよりダブって買ってもそれはそれとして構わないのだと、覚悟を決めたほうが、気が楽というものだ。

  考えてみれば、昔から私は、本は消耗品と考え、線を引いたり書き込みをしたりと、読み潰して来たのだから、むしろ重複して買ってしまうということは、書籍を消耗品化して消費しているのだから、自慢してもかまわない習癖なのだと言えまいか? とは、余りにも我田引水・自画自賛に過ぎると反省はしておこう。

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2008年11月26日 (水)

晩秋

  晩秋の穏やかな日の午前、近くの庭園の紅葉の具合を見に行った。古いデジカメがいけないのか、はたまた腕が悪いのか、それとも自然の移り変わりについての感性が無いのかそれは分からぬが、下手な写真を何葉か載せて本日のブログのお茶を濁すことにする。

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2008年11月23日 (日)

人生の黄昏

  安心ということは、まことに大事なことと思うのであるが、馬齢を重ねるにつれて、セキュリティ弱者という範疇に落ちぶれてしまったということを痛感する。だからといって、この日本の社会が、安心ということが空気のように感じられる日はもう来ないと思うと、そぞろ物悲しくなる。

  今日この頃になって、突然そのようになってしまったわけではなく、じわりじわりと積み重なっていった汚泥が、ついにその腐敗圧力に耐えかねて、そのメタンガスを噴出してきたのだと了解するしかない。

  同じ年齢の友人たちから来るメールの頻度も、随分落ちて来た。というよりは来る事が稀になった。何かにつけて、メールなどという面倒くさいものに付き合うということが出来なくなってきたということが真相なのかも知れぬ。

  闘病者も多い。元気そのものであって、100歳までも生きると思われるような者でも、あっという間に旅立ってしまうのである。従って、もう同窓宴会が計画されなくなってから久しい。もっとも老生などは、出るに出られぬのだからあっても無くてもあまり関係ないといえば関係ないのだが、それでもその消息が聞けぬのは寂しい。

  欧米でのニューソート関連、例えばその元祖とでもいうべきジェームズ・アレンの著作などを読んでいると、思考それもポジティブなそれが大切だということが強調されているが、五木寛之氏などに言わせると、東洋的なネガティブシンキングこそ大事ということになる。いずれにせよ黄昏の万華鏡を輝かせるのは至難の業である。

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2008年10月22日 (水)

年賀状の悩み

  筆ぐるめVer.16を今日アマゾンに発注してしまった。今まで使用していた年賀状ソフトは筆休めだったが、プリンターを買い換えたからソフトも替えて見ようと思い立ったのだ。Vistaの方にインストールするつもりだから、筆休めは対応してないのと、いささか古いのでやめることにしたのだ。

  本当のことを白状すれば、21年から年賀は止めようと密かに決意していたのであるが、年末が近づくにつれその決心も鈍り、21年だけは出すことにしその旨を年賀に書いて22年から止めることに翻意したのだ。

  何十年と会ってもいない人に年賀状を儀礼的に出しても意味はあるまいと思うのであるが、所縁の放下はきわめて勇気の居ることであることを思い知ったのである。それでも今年はプリンターとソフトがが新しいから、労力は減ると思うが、心理的な労力は減ることも無く、悩みは尽きない。

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2008年9月18日 (木)

路上散策

敬老週間とて、江東区の方を散策した。清澄庭園へ行くのががその目的であったが、ついでながらぶらぶらとそのあたりを見渡すと、

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かの有名な中村学園が目に付いた。その建物の前面に若人の像があった。途中で出会った下校時の女学生の制服がなかなか好かったのであった。

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その中村学園のすぐ近隣に、下のような碑があったので何かと見れば、村田春海の墓の跡であった。春海は知らなかったが、このような碑に出会うことがあるので散策はこたえられない。

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本来ならば『トマソン』を探したいところであるが、下町の路地でないので無理だった。この墓の先には、近代的な寺があったので、春海の本物の墓があるだろうと思ったのであるが、入りにくそうな寺だったので止めた。

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2008年7月28日 (月)

著者の年齢が気になるか!

  書物の著者が気にならないか? 私は大いに気になる。当たり前のことであろう。ただ私はその著者の年齢、その本を執筆した、或いは出版した時の年齢が気になるのである。

  それを読むときの自分の年齢を、その著者のその時点での年齢を比較して、もし自分がはるかに年上であると、なんだか読むのがはばかられるのである。

  しかしそれは昔のことであって、今ではどの著者の年齢も皆年下となってしまい、気にならなくなった。考えてみれば古典などは、皆それに該当するのである。マルクス・アウレリウス然り、夏目漱石然りである。

  随分と長い間、なんという下らない読書姿勢であったかと、今にして思えば汗顔の至りである。自分以外はこれすべて師という姿勢で今は謙虚に読書を愉しんでいる。

 

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2008年7月27日 (日)

盆踊り雑感

 昨夜盆踊りを見に行った。この団地でもいまや高齢化が進み、それと少子化とがあいまって、まことに近年は淋しいものに成り果てている。昔といっても、30年ほど前までは、子供で溢れ、踊る人も何重にも輪となっていたものだったが、今ではそれも疎らである。

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 それに引き換え、米国では少子化とは無縁のようである。その理由の大きいところが、移民の増加であり、移民の人々は子沢山ということらしい。日本では移民などは論外ということだから、やはり少子高齢化は避けられぬ運命かと思うと、そぞろ民族の黄昏を想起してしまい、暗澹たる思いに駆られることもあるが、ひょっとしたらそれこそが、人類の本来あるべき姿で、辿るべきデスティニーかも知れぬなどと考えたりもするのだ。

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2008年4月27日 (日)

自然の復元力

 暫くといってもそれほど前ではないが、近くのどぶ川のほとりを散歩していた。このどぶ川に沿って、うなぎの寝床のような細長い公園がある。幅15m程ではあるが、長さは1kmくらいはあろうかという変な公園である。これが私の哲学の散歩道であるとでも言えば、少しは格好がつこうというものだが、別にそんな大それたものではなく、たんに他に散歩すべきところが無いから、ふらふらと歩いているに過ぎない。

 長いだけが取り柄であって、手入れもそれほどしてないが、幅が狭いからスポーツをする人も無く、時折ウォーキングをしている人を見かけるぐらいの、公園ではあるが、手入れをしてなかったり人気が余り無いから、色々と雑草が生えていたりして面白い。珍しい草花が群生したりしてもいる。

 どぶ川とこの公園の間に細い道路が通っていて、昼時などになるとずらっと駐車している車で一杯である。それらの車から、食べ終わった昼食などのごみを公園に投げ込むやからが多くて困る。又夜間人目の無いときに、粗大ごみを捨てていく者も多い。駐車違反車の取り締まりも無いから、片付けても片付けてもすぐゴミの山がそこかしこに出来上がる。日本人の公徳心などは期待する方が無理というものである。

 そのようなどぶ川の護岸として、東京都が鉄の筒(パイルと言うのか?)をずらっと打ち込んでいる。時々浚渫したりもしているから少しはましではあるが、昔はうなぎなどが捕れ、泳げたであろう清流も、生活用水の垂れ流しで、今では見る影も無い有様である。

 しかし自然の復元力というものは大したものだ。写真に掲げるように、コンクリートと鉄ばかりの岸に、土筆の胞子などが漂着したのであろう。土筆が一面に群生して来た。葦などもすごい勢いで増えてきた。そういう有様を見ると、人間さえいなければ、この自然にとっては実に幸せなことだろうなどと想像して、自分の生きている意味などを疑念をもって反省するのだ。反省だけなら猿でもするのではあるが!

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2008年4月24日 (木)

加齢現象の有難み

 随分長期間にわたって、ブログを休んでしまった。書くネタがないと言うこともさることながら、体調が不良であったことが一番の原因である。というのは単なる言い訳であり、本当はサボっていたと言った方が正鵠を得ていると思っている。

 ところで、4月になって、テレビの各局とも、新たな連ドラを放送し始めた。それと共に、これは以前からそうであったが、以前放送をしたものの再放送も、だいたい2時ごろから5時前にかけて、行っているのは変わりない。

 以前の放映分については既に見てはいると思うのだが、加齢現象と言うのは有り難いもので、大方の筋は勿論のこと、見たという事実そのものすら忘れ果てていて、暫く多ってから、あるいは見終わってから、ひょっとしたらこれは既に見たのではあるまいか?などという疑問がわいてくる始末である。

 したがって、結論として言えることは、見たとか見てないとか、あるいは新番組であるとにかかわり無く、連ドラを愉しむことが出来るのが有り難い。ただしそのことは、探偵もの(古い表現で恐縮である。刑事もの、ミステリーものと言うべきである。)に限って言えることであり、最後を決まりきった台詞とか啖呵で締めくくるもの、例えば『水戸黄門』とか、『暴れん坊将軍』とか、新しいものでは『ごくせん』などはその限りではない。これらは、『その最後の決め台詞のところだけを見ればすむのである。つまりそこだけが面白いと言うわけだ。これは時間の節約と言う点からも有難いことである。

 それともう一点だけ言える事は、連ドラは、特に再放送分については、録画で見るべしということである。ライブで見るということはまことに時間がかかってしまうと共に、制作ということが既にライブではないのであるから、劇場で見るとかいう場合を除いて、個人で見る分には、録画の方がいいのだ。ライブで見るのははライブの放送に限るべしというのが私の方針なのである。

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2008年3月31日 (月)

年度末のボヤキ

 今日で平成19年度も終りだ。それにしてもブログのアップが少なかったと反省することしきりではあるが、加齢と共に、好奇心が薄れたせいだろうと思うが、殆どネタを思いつかなくなった。

▼20年度に関しては、ブログを絞り、殆どアップしない、事実上の閉鎖ブログは、実際に閉鎖をして、心根を入れ直して、少しはましなブログにしたいものだと念じている。

▼年度の最後に当たり、何も写真が無いのも寂しいから、全くこんなものは無くなった方が地球温暖化防止に役立つと思う『自販機』なるものを掲げてお茶を濁すことにする。

Jihanki

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2008年2月 2日 (土)

老年について

 キケロの『老年について』は何度も読み返して来た。随分昔に買った本だ。その他に、内外の著者のこの関係の書物も随分と持ってはいる。アマゾンからの案内に、下記のような書物があったので、注文した。そのうちに所見をアップする積りである。

Oirutoiukoto

Yosojikaranagamereba

 このような種類の本について、関心が高まってきたということは、まことに自分の物理的年齢を考えると汗顔の至りである。余りにも遅きに失しているということだ。『葉っぱのフレディ』をまた読んでみるか。

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